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2022. 03. 20  

マルコによる福音書15章31-32節「同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。」

今、教会は受難節を迎えております。受難節とは、イースターの前の7週間で、そのときにイエスの十字架に向かわれた苦しみ、十字架の出来事についていつもにまして特別に考えてみましょうという期間です。私たちは毎週日曜日ごとに集まって神のことを思い、イエスを記念しておりますけれど、受難節は特にイエスの十字架の出来事のことを考えたいというものです。今年は4月17日にイースターを迎えますが、イエスのご受難の出来事を通してイエスの復活を喜ぶ備えをする期間です。それは、イエスのあの死を通して「生きる」とはどういうことかを考える時でもあります。ときに「死に方」とは「生き方」そのものであります。
今日の言葉は、十字架のイエスに浴びせられた罵倒のひとつです。罵る人たちといっしょになって祭司長や律法学者から罵られるのでした。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい」。ひどい悪口です。死にゆく人に、また自分たちはイエスを十字架につけた側なのにここまでのことを言うか、という罵倒です。
しかし、ときに悪口というものは真実を表すこともあります。「他人は救ったのに、自分は救えない」ということは、まさにイエスのあり方でもありました。「他人は救ったのに自分自身を救うことのできない救い主」というのが私たちの救い主、キリスト・イエスではないかということです。人間イエスが生涯かけて歩まれたのは「自分は救えないけれど、他者は救う」、「他者を救ったからこそ命を捨てることになった」そんな生き方です。
イエスは他人を救ったのでした。それはどのような他人かというと、それは「罪人」というレッテルを貼られた人たちでした。古代社会では「障害や疾病は神からの罰」というようにみなされていました。特に古代イスラエル人にとって病ある人は「律法を守れないゆえに天罰がくだっている」というように思われていたのでした。病や障害そのものの苦しみだけではなく、差別され、共同体から排除される苦しみ、生存を脅かされるほどの苦労があったのでした。イエスが救ったのは、は不遇の人でした。悪霊に取り憑かれているゆえに病や障害のある人を癒し、律法を守れず罪人と言われ共同体から阻害されている人たちに神の救いを告げ知らせていたのでした。病や障害から回復されることで、共同体へのつながり、人とのつながりも回復されたのです。
そのようなイエスの癒しの業は、律法との緊張関係を生んでいくことになります。病や障害に苦しむ人は律法を守れなかった人たちなのになぜ助けなければならないのか?というむきもあったかもしれません。それ以上に、イエスという人が「律法を軽視している」という風に思われたのでしょう。
マルコ福音書5章25節以下にはいわゆる「長血の女」の癒しの物語があります。12年間生理が止まらない女性、この女性は本人が悪いわけではないのに出血が止まらないゆえに「汚れたもの」とされていました。汚れたものが他の人に触れたらその人を汚すことになるので触れることはできません。しかし、この女性は「この方の服にでも触れればいやしていただける」(マルコ5:28)と思い、群衆にまみれたイエスの衣に触れたのでした。イエスは自分に触れた人がいることに気がついて、結果その女性を探します。自分は律法にてらしてとんでもないことをしたという自覚のあるこの女性は、自分が人に触れたことが発覚するのではないかとおびえていました。そんな女性にイエスは、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(マルコ5:34)とその女性の行動を肯定されたのでした。「とんでもないこと」というのは汚れた女性が他の人に触れるということが律法に違反しているからです。このことはこの女性も重々承知していました。しかし、それ以外にこの女性は「汚れたもの」でなくなり、共同体に復帰する方法を思いつくことができませんでした。それだけの苦しみ、それだけ切迫つまったことがこの女性にはありました。イエスは表面的な律法的正しさよりもこの女性の苦境と思いに寄り添い、この女性の大胆な境界線破りを肯定されたのでした。この物語からイエスの律法に対する態度というものがよくわかるようにおもいます。
もうひとつは、マルコ福音書3章1節から6節までの短い奇跡物語です。 イエスは会堂で手の萎えた人の癒しを行われました。その日は安息日でした。イエスは「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」(マルコ3:4)と人々に問われたのでした。イエスの問いに答えない人たちにイエスは怒りと悲しみを覚えながら「手を伸ばしなさい」と言われると手の萎えた人は癒されたのでした。「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」(マルコ3:6)とあります。「安息日には労働をしてはならない」という掟がありましたから、イエスのこの癒しは律法違反ということになります。安息日は絶対に守らなければならないと堅く信じていたファリサイ派の人たちにとっては、思想的には合わなかったであろうヘロデ派の人たちと結託してどうやってイエスを殺そうかと相談を始めるほど許し難いことであったでしょう。他方、イエスにとってみれば、手の萎えて苦しんでいる人がいる中で安息日の祝いをすることは、安息日が形骸化してしまい、それによって苦しむ人がいる。そんな中で神の創造を喜び祝うなんてことはできなかったのでしょう。イエスは本当に人間を大事にする優しい方でありました。
イエスは他人救ったのに自分は救わなかった、他人を救ったから殺されることになった、そんな不器用な生を生き抜いた方でした。もし、イエスが「自分を救う」ということを望まれるような方であったなら、秩序を乱さず、人を助けるようなことをされることはなかったでしょう。イエスはそうではありませんでした。「他人は救ったのに、自分を救えない」という生き方をされ、殺されたのでした。
私たちも生もまた、イエスほどの苦しみはなかったとしてとそのような不器用なものではないかと思うのです。他の人のことは手助けすることはできたとしても自分のことは助けることができない。また逆に「他人を救う」ことで自分を生かすというというところもあるのではないでしょうか?
みなさん「靴屋のマルチン」という絵本、トルストイの「愛あるところに神あり」というお話をご存知でしょうか。妻と子に先立たれ悲嘆にくれている靴屋のマルチンという人に友達が聖書を読むように勧めます。マルチンが聖書を読んでいると「マルチンよ、今日私はあなたのところにいきますよ」と神様の声がきこえました。これはどういうことだと思って一日マルチンは過ごしていると、雪の中靴が壊れて困っている老人、赤ん坊を連れたお母さん、りんごを万引きして捕まった子どもに出会い、親切にします。マルチンは一日を終え、神様はこなかったけれど満たされた気持ちになったのでした。そんな思いの中にあるマルチンに、神が語りかけます。「マルチンよ、今日私はあなたのところに行きました。」マルチンがもてなした人たちが神様だったということです。マルチンが悲嘆にくれたまま、自分の殻の中に閉じこもっていたならば神との出会いはなかったのです。自分の救いだけにこだわっていたら、神の恵みにも気がつかない。そのことを「靴屋のマルチン」の物語は教えてくれているのです。
自分だけを助けようとして他者を顧みない生き方、それは生きていることになるでしょうか?イエスが身をもって示された「神を愛し、人を愛する」ということに相応しいといえる生き方といえるでしょうか?昨今、「自己責任」という言葉、「自分のことは自分でする」ということがよく言われています。それはその通りだと思う一方で、そもそも人間はそれほど「自分のことを自分で助けられるもの」なのでしょうか?自分のことは救えないから神と人に助けてもらう、それがわかっているから自分も出来るだけ人を助ける。それでいいと思うのです。そのことが神から私たちに託されている生き方なのではないか、と思うのです。
私も、これからも「他人は救ったのに自分は救えないという不器用な生」を生きていきたいと思います。イエスだって自分を救えなかったのです。他人を救ったから、自分は殺されたのです。それでいいのです。私たち誰もが、他人は救っても自分を救うことができないものだからです。




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マルコによる福音書16章1~8節
「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に言った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話合っていた。ところが、目を上げて見ると、石はすでにわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。ご覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさない。『あなたは、あなたたちより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」
6節「すると彼は彼女たちに言う、「〔そのように〕肝をつぶしてはならない。あなたたちは十字架につけられた者、ナザレ人イエスを捜している。彼は起こされた、ここにはいない。、ここが彼の納められた場所だ。」(岩波訳)




イースターおめでとうございます。イースターとは、ローマ帝国からの弱い者いじめにあって十字架につけられて殺されたイエスが、三日目に復活されたことを祝う祭りです。イエスが金曜日に殺されて、そして日曜日に復活されたので、教会は日曜日ごとに礼拝をするようになりました。そういう意味では私たちは日曜日ごとに「小さなイースター」をお祝いしています。今日はイースターですからなおさらイエスの復活の記事を読み、そのことを特別にお祝いするのです。
今日の聖書はマルコによる福音書の最後に書かれているものです。日曜日の朝に、三人の女性のお弟子さんたちがイエスの墓にやってきました。男のお弟子さんたちはイエスが捕まってしまったらみんな逃げてしまったのに、それでも逃げずにイエスのことをずっと追いかけていたそんな人たちです。もし、イエスの味方だとわかったらひどい目にあうかもしれないのにそれでも逃げなかった勇気のある人たちです。そして、イエスが十字架につけられて殺されていくことをただ黙って見ているしかできなかった人たちでもあります。どうすることもできなくて悔しくて悲しい思いをしたでしょう。
その女性のお弟子さんたちは、イエスはもう死んでしまったけれど、何かしてあげたいと思って香油を買ってお墓参りに行ったのでした。お墓に行ってみると、イエスの墓の入り口に置かれていた大きな石が転がされて中に入れるようになっていました。女のお弟子さんたちがお墓の中に入って見ると、そこには白くて長い服をきた若い男の人がすわっていました。その人はこんなことを言いました。「みなさんは十字架につけられて殺されたイエスを捜しているけれど、イエスは復活してここにはおられません。ここから出て行ってお弟子さんたちにこう言ってください。『イエスは、あなたたちより先にガリラヤに行かれました。ガリラヤに行けばイエスに会うことができますよ』」それをきいたこの女性たちは震え上がってお墓から飛び出して逃げていきました。そしてそのことを誰にも言いませんでした。とっても怖かったからです。
こんな風に物語は終わります。このお話、ちょっと変だと思いませんか?「とっても恐ろしかったから誰にも言いませんでした。」って言われているのに、何でこんなお話が残っているんでしょう?ここに書いてあるとおり、「誰にも何も言わなかった」(8節)のなら、こんな話は残っていないし、この世界に教会はなかったでしょう。大昔の人も「え~これは変だよ。」と思って、この話のあとに続きを書き加えました。この結末に納得がいかず、また別の福音書を書いて、この話を書き換えた人もいます。
よく考えてみるとこの女のお弟子さんたちが驚いて怖くて誰にも話せなくなってしまいましたというのもやっぱり本当だと思います。信じられないことが起こったからです。この女性たちはイエスが十字架につけられて殺されていくのを見ていました。イエスさまが確かに死んだのも知っています。お墓に入れられたのも知っています。でも、今そのお墓は空っぽでそこにいるはずのイエスはおられないのです。人は、悲しいことつらいことがあると本当はそのことを言いたいのに言えなくなってしまうことがあります。この女性たちもそういう気持ちだったのでしょう。イエスが殺されていくのを逃げずに見ていた勇気のある人たちでも、恐いと思うことだったのです。
聖書を読んで復活はこういうことだとわかることは難しいことです。でもちょっとだけヒントがあります。今日の聖書で「復活された」と書かれているところは、「起こされた」という意味です。イエスは自分で起き上がりましたというより、「神がイエスを起こしてくださいました」ということです。それは、「イエスはあんな風に殺されてしまったけれど人間として生きていたイエスがおっしゃったこと、なさったことは正しいし、そしてあんな風に殺されたとしてもそれで終わりではありませんよ」ということでもあります。
空の墓を見て恐ろしくなって何も話せなくなった女性たちは、きっとこの「神さまが起こしてくださる」という意味がわかって、「お墓が空っぽでした」という「大事な証言」を話せるようになったのでしょう。そして「空っぽのお墓がイエスが復活された証拠だ」と思えるようになったのでしょう。そのように言えるようになったから、このような話が伝わっているのです。神はイエスを十字架で殺されるという絶望から起こしてくださったように、この女性たちも、大切なイエスが殺されたという絶望から起こしてくださったのでした。
イースターは、イエスが復活されたことをお祝いする時であり、それといっしょに、神さまがイエスと同じように私たちを起こしてくださる方であることを示される日でもあります。そんな神を信じることができるのは幸せなことです。今日は、神さまが「イエスを死から起こしてくださる方」であることを覚えて帰りたいと思います。

お祈りいたします。
すべての命の源であり、イエスを死から起こされた神さま、御名をあがめます。
あなたはイエスを十字架での非業の死からよみがえらせてくださいました。それは、あのイエスのご生涯があなたの御心そのものであり、どんな苦難や絶望があってもそれで終わりではないということです。私たちは今日そのことを信じます。あなたに信頼します。絶望に倒れても、あなたの望む愛を少しずつでもしていくことができるようにしてください。
この祈りを、あなたに起こされた私たちの先達であり友であるキリスト・イエスの御名によって祈ります。
アーメン
プロフィール

爽歌*sayaka

Author:爽歌*sayaka
1984年北海道某市にて出生。2015年に某神学校卒業。
2015年4月からある教会に副牧師として着任。2018年転任し、按手礼を受ける。
牧師のほかに福祉関係の仕事に従事しながら「僕仕」の道を歩み続ける。

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